2010年12月25日土曜日

却下の歴史

 私の育った町、大超寺奥は大超寺というお寺から奥ということで町名となった。鬼ヶ城の谷間にできた町である。子どもの頃は、まだ桑畑や田んぼが多く残っていた。この地区の主な職業は勿論、農業である。ここで言う「天満神社」はこの大超寺奥の氏神様で「おとっさま」と言っていた。語源は誰に聞いても現在の所不明である。この谷間にいろんな歴史的な石造物が眠っているのを恩師である、もと松山大学教授の三好昌文先生が「館報うわつ」掲載された。懐かしさと新しく情報を発信する意味で許可をいただき、写真は現在のものを撮影し掲載することにした。

丸穂村の石碑(大超寺下)       霊亀山大超寺


 












脚下の歴史                           松山大学教授 三好 昌文
 宇和島地方には、中世から近世初期の史料が乏しく、十分に歴史を解明することが難しい。
 従って考古学や民族学の方法によって産史の空白を探ることも大切である。宇和建校区の含まれる旧毛山村(丸穂村)に散見される遺物を多少発掘してみたい。

(一)一石五輪塔
大超寺本堂裏の山内家墓地に二基の一石五輪塔がある。一本の角柱の石に刻み目を入れて、五輪塔に擬しているため、この名称がある。中世から近世の墓か供養塔といわれるが、図柄も銘文もなく、由緒や時代の考証もできない。なお、同寺にはもう一基のコンクリート製の一石五輪塔がある。これも銘文がなく、何家の墓とも分からない異形のものである。宇和島では大超寺だけに見る。大超寺に建つ一石五輪塔 だれがどういった目的で建てたのかさっぱりわからない不思議な五輪塔である。
                                                       一石五輪塔


(二)力石
大超寺奥の天満神社には二個の力石かあり、一個には五十五〆(貫目)と刻まれている。その昔、村の若者が力を競い、友情と連帯を深めた情景が浮かぶ。

           天満神社と力石
            

 











(三)住民の墓
天満神社から左に約40m行った所に、自然石(緑泥片岩)に「寛文4年9月14日 妙容禅定尼」と刻まれた墓がある。石工の手によらず、住民が刻んだ稚拙で浅い彫りの文字であるが、筆者の管見によれば、宇和島の農民の墓では3番目の古さである。西暦1664年に当たる。

           妙容禅定尼の墓


           大超寺奥より望む宇和島城


(四)石碑
天満神社から努力橋を渡り約30m行った山側の藪の中に、大きな石碑がある。表は「南無釈迦牟尼仏」、裏に「正徳3癸巳年十月日 大乗妙典経一字一葉塔 施主 伊達姓之臣 甲斐源氏荻原源太左衛門忠行」と刻まれている。大乗妙典とは法華経のことであろう。西暦1713年、宇和島藩の武士の間に釈迦信仰の存在した事実が分かる。荻原家はもと甲斐武田家の末家、武田氏没落後、彦根藩主井伊直孝の縁で、荻原惣次郎の娘が秀宗夫人亀のお局職として来宇した。この時二男彦兵衛も来て、成人後200石を与えられた。源太左衛門は彦兵衛の養子で、2代藩主宗利の近習など勤めた人物である。
大超寺奥を少し散策しただけで、このような石造物を見つけた。もっと慎重に歩き、さらには住民から聞き取り調査をすればもっと新しい歴史が却下から蘇ってくるであろう。

  努力橋


          荻原源太左衛門忠行が建てた石碑


 
大超寺奥の大きな桑の木 かつて宇和島は養蚕業が盛んであった。

※ 私が子どもの頃はこの付近一帯は「桑畑」であった。
  桑の実を食べ、唇の周りを紫色に染めていた時代。
  三好先生のお話によると、昭和4年の世界恐慌の頃より、養蚕業は激減したとか。
  現在は西予市野村にその面影が残っている。

            桑の木の大木(現在3本残っている)