何と言うことはないのにみんな忙しそうに動いている。新しい年に期待してか、新しい年のまっさらな出発をするためか。なんにせよ、大晦日、新年というのは季節感とともに日本の心に触れる行事である。
その大掃除のお手伝いの合間に街に出てみた。商店街は人通りはあるものの閑散としている。地方の悲しさか、それとも意識のなさか分からない。いろんな人たちが活性化を叫んでいるが、成功した話はあまり聞かない。天井には新年を迎える看板が・・・
2010年12月29日水曜日
鬼ヶ城
私のブログはこの山の名前を取って「鬼城」としている。山の名前の由来は不明である。宇和島市はこの山から流れる神田川、辰野川の小さな扇状地である。集落があり、すぐ海に面していたが、伊達家の施策により新田開発を行い、埋め立てて今の街ができている。つまり鬼ヶ城による恵みである。
この鬼ヶ城を撮影するためには、場所の選択がいる。ほとんどの所は電線が入り邪魔をする。今、一番良いスポットは市立宇和島病院の8階。邪魔になるものは無い。贅沢は言えないが、室内灯の映り込みがあるのが難点である。雪の積もった鬼ヶ城をぞうぞ。
この鬼ヶ城を撮影するためには、場所の選択がいる。ほとんどの所は電線が入り邪魔をする。今、一番良いスポットは市立宇和島病院の8階。邪魔になるものは無い。贅沢は言えないが、室内灯の映り込みがあるのが難点である。雪の積もった鬼ヶ城をぞうぞ。
2010年12月27日月曜日
イルミネーション
最近、12月のクリスマスシーズンに合わせ、イルミネーションによる飾り付けが多くなった。昔は豆球や麦球が多く使われていたが、電力が多くいること、弾切れが多いなどと敬遠されてきた。しかし最近ではLEDの台頭で省電力、長時間耐久、多色(白、青、赤など)でいろいろとデザインを描くことができることから町、店、個人のものが増えてきた。
さて宇和島近辺で言うと「野村ダム(朝霧湖)」「三間町中山池」が有名なところ。あとは個人の家が多々ある。その一部を掲載する。
野村ダム朝霧湖の入り口
イルミネーションが多い都市はイルミネーションシティ(イルミネーション都市)と呼ばれることもある。また、個人家を電飾で飾って楽しむ人をイルミネーターという。
またイルミネーションを専門として企画設計する人を、イルミネーションデザイナーと呼ぶ。さて宇和島近辺で言うと「野村ダム(朝霧湖)」「三間町中山池」が有名なところ。あとは個人の家が多々ある。その一部を掲載する。
野村ダム朝霧湖の入り口
野村は乳牛の飼育が盛んなところ
朝霧湖の看板
中山池展望台
旧三間町の町花コスモス
クリスマスツリー
サンタさんのそりと森の魚
宇和島市内の個人の住宅
2010年12月26日日曜日
藁蔵(わらぐろ)
西予市宇和町西山田というところに、わらぐろ保存会がある。わらぐろとは刈り取った稲のわらの部分を丸太を中心に積み上げたものである。春になれば細かく切り刻んで肥料となったり、家畜のえさにもなる。昭和40年代を境に激減していたが、地域の活性化や先人達の知恵を踏襲するため復活させた。冬になるとライトアップされ、風物詩としても定着してきている。
2010年12月25日土曜日
却下の歴史
私の育った町、大超寺奥は大超寺というお寺から奥ということで町名となった。鬼ヶ城の谷間にできた町である。子どもの頃は、まだ桑畑や田んぼが多く残っていた。この地区の主な職業は勿論、農業である。ここで言う「天満神社」はこの大超寺奥の氏神様で「おとっさま」と言っていた。語源は誰に聞いても現在の所不明である。この谷間にいろんな歴史的な石造物が眠っているのを恩師である、もと松山大学教授の三好昌文先生が「館報うわつ」掲載された。懐かしさと新しく情報を発信する意味で許可をいただき、写真は現在のものを撮影し掲載することにした。
丸穂村の石碑(大超寺下) 霊亀山大超寺
脚下の歴史 松山大学教授 三好 昌文
従って考古学や民族学の方法によって産史の空白を探ることも大切である。宇和建校区の含まれる旧毛山村(丸穂村)に散見される遺物を多少発掘してみたい。
(一)一石五輪塔
大超寺本堂裏の山内家墓地に二基の一石五輪塔がある。一本の角柱の石に刻み目を入れて、五輪塔に擬しているため、この名称がある。中世から近世の墓か供養塔といわれるが、図柄も銘文もなく、由緒や時代の考証もできない。なお、同寺にはもう一基のコンクリート製の一石五輪塔がある。これも銘文がなく、何家の墓とも分からない異形のものである。宇和島では大超寺だけに見る。大超寺に建つ一石五輪塔 だれがどういった目的で建てたのかさっぱりわからない不思議な五輪塔である。
一石五輪塔
(二)力石
大超寺奥の天満神社には二個の力石かあり、一個には五十五〆(貫目)と刻まれている。その昔、村の若者が力を競い、友情と連帯を深めた情景が浮かぶ。
天満神社と力石
(三)住民の墓
天満神社から左に約40m行った所に、自然石(緑泥片岩)に「寛文4年9月14日 妙容禅定尼」と刻まれた墓がある。石工の手によらず、住民が刻んだ稚拙で浅い彫りの文字であるが、筆者の管見によれば、宇和島の農民の墓では3番目の古さである。西暦1664年に当たる。
妙容禅定尼の墓
(四)石碑妙容禅定尼の墓
大超寺奥より望む宇和島城
天満神社から努力橋を渡り約30m行った山側の藪の中に、大きな石碑がある。表は「南無釈迦牟尼仏」、裏に「正徳3癸巳年十月日 大乗妙典経一字一葉塔 施主 伊達姓之臣 甲斐源氏荻原源太左衛門忠行」と刻まれている。大乗妙典とは法華経のことであろう。西暦1713年、宇和島藩の武士の間に釈迦信仰の存在した事実が分かる。荻原家はもと甲斐武田家の末家、武田氏没落後、彦根藩主井伊直孝の縁で、荻原惣次郎の娘が秀宗夫人亀のお局職として来宇した。この時二男彦兵衛も来て、成人後200石を与えられた。源太左衛門は彦兵衛の養子で、2代藩主宗利の近習など勤めた人物である。
大超寺奥の大きな桑の木 かつて宇和島は養蚕業が盛んであった。
※ 私が子どもの頃はこの付近一帯は「桑畑」であった。
桑の実を食べ、唇の周りを紫色に染めていた時代。
三好先生のお話によると、昭和4年の世界恐慌の頃より、養蚕業は激減したとか。
現在は西予市野村にその面影が残っている。
桑の木の大木(現在3本残っている)
2010年12月24日金曜日
狛犬
狛犬(こまいぬ)guardian lion
獅子や犬に似せた想像上の獣の像である。一般的に神社や寺院の入り口の両脇、あるいは本殿:本堂の正面左右などに一対で向き合う形、または守るべき寺社に背を向け、参拝者と正対する形で置かれる。
獅子や犬に似せた想像上の獣の像である。一般的に神社や寺院の入り口の両脇、あるいは本殿:本堂の正面左右などに一対で向き合う形、または守るべき寺社に背を向け、参拝者と正対する形で置かれる。
我が家の氏神様、南予一宮榊森宇和津彦神社には4基の狛犬が設置されている。大鳥居のところ、階段の脇、本殿の前と水神様の前である。それぞれ顔立ち、制作年代は違うが、共通点がある。阿形(あぎょう、口を開けている)、吽形(うんぎょう、口を閉じている)である。いずれも本殿に向かって右の狛犬が阿形で雄の狛犬、吽が雲形で雌の狛犬である。
南予一宮榊森宇和津彦神社
水神様
2010年12月23日木曜日
グラディエーション
今日は天皇誕生日で全国的に休みの日ですが、私は仕事でした。特に今日は「お墓掃除」でした。何の職業でしょうか? このお墓掃除も大事な仕事なんです。このお墓は伊達家の墓所である金剛山大隆寺にあります。ふっと、友人のブログを思い浮かべました。「撮り歩き」というサイトで素晴らしい写真技術を見せてくれます。url は http://uwatu.blog135.fc2.com/ でハンドルネームは「うわつ」さんです。
その中に金剛山大隆寺での「水草の紅葉」が出ていました。そこで青から赤に変わる変化を捉えてみました。面白いグラディエーションですね。うわつさん、情報ありがとうございました。
その中に金剛山大隆寺での「水草の紅葉」が出ていました。そこで青から赤に変わる変化を捉えてみました。面白いグラディエーションですね。うわつさん、情報ありがとうございました。
2010年12月22日水曜日
冬至
今日は二十四節季のうちの冬至。北半球では夜が一番長い日であり、この日にゆず湯に入り、冬至がゆ(小豆がゆ)やカボチャを食べると風邪をひかないと言われている。
散歩の途中にふと見ると「蝋梅(ろうばい)」が咲き始めている。酷暑とか、暖冬と言われながら間違いなく季節は移ろっている。
散歩の途中にふと見ると「蝋梅(ろうばい)」が咲き始めている。酷暑とか、暖冬と言われながら間違いなく季節は移ろっている。
2010年12月19日日曜日
宇和島城(その二)
宇和島城は何時行っても工事中。聞くところに寄ると保存改修事業で国の予算を使いながら長期間掛けて、調査研究および改修を行っているとのこと。確かに大きな看板が立っている。その一つ、藤堂高虎築城の頃の石垣が発見されている。現在、発掘調査中とか。今から四百数十年前の頃のこと。対照的なのはトイレの改修工事、城山公園内にできつつあり、今年中には使用できるようになるとか。郷土館横の「穂積陳重・八束」の生家の長屋門。毎日、朝6時「鉄道唱歌」、昼12時「とんび」、夕方6時「ふるさと」、夜9時「宇和島さんさ」を奏でる「ミュージックサイレン」と普段見られないような場所を捉えた。
保存・改修事業
江戸時代の石垣のしたの小さな石による石垣
穂積陳重・八束生家の長屋門
新しくなるトイレ
ミュージックサイレン(後方は鬼ヶ城)
初冬の宇和島城
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